文章を書くこと

子供のころから本を読むことが好きだった。
上に兄、下に妹がいて、中間子の私はどちらかというと手がかからないタイプだったと思う。
おとなしいわけではないけれど一人でいることは比較的好きだったし、物心ついたころからの習慣で、寝る前にごろんと布団に横になって世界の昔話をずらりとあつめた図鑑のように重たい本を何度も何度も飽きずに読んでいた記憶がある。インドの昔話やらどこの国の話だかわかんないものもあったけれど、物語の中にトリップする時間は楽しく、思えばあのころから空想がちで自分の世界にこもる癖があったのかもしれない。

小学校の3年生だか4年生だか、はっきりと覚えていないが、夏休みの宿題だった読書感想文でなにか入賞したような記憶がある。
何も意識せず、思ったことを文章につらつらと書いたものだったので、表彰されて冊子に印刷されたものを見ても「こんなこと書いたっけ」と記憶にございません状態で、同級生の前でそれを朗読させられた時は恥ずかしすぎて、読み上げながら顔から火を噴きそうな勢いだった。先生は良かれと思ってのことだっただろうけど、自分の書いた文章をみんなの前で読むというのはまぁまぁのバツゲームだと思う。あれは今だに少しトラウマだ。

交換日記とかお手紙とか、この頃の小学生女子ならだれもが一度は経験があるのではないかと思う。
今の時代はもしかしてSNS上で事足りるから、そういうものはあまりないのかもしれない。
とにかく、なんだかんだで文章を書くという習慣は、子供のころから普通にやってきたことなので意識をしてどうこうというものでもなかった。

少し考えて文章を書くようになったのは、小学校の担任の先生との交換日記がきっかけだったと思う。
もともとはその交換日記は、クラスの生徒全員が先生と1冊のノートを通じてつながるというもので、今思えば40人近くいる生徒の日記を毎日読むなんて、どこで時間をとっていらしたのだろう、と驚くばかり。おそらく生徒の小さな変化も見逃さないように、先生なりに工夫された生徒とつながるツールだったのだろうと思う。
最初は日記らしく、今日はこんなことがあったとかこんな風に感じた、と、とりとめのないことを書いていた。
だけどいつしか、物語を書くようになった。多分書くネタに困ったのだと思う。だけど今思えばそれはそれはファンキーな解決法だった。
物語の内容はちょっとはっきり覚えていないけれど、なかなか自由な生徒だったな、と今も思う。
だけど先生はそれを注意するどころか、必ず読んだ感想を書いてくださった。「次も楽しみにしてるよ」という言葉に、小さなライターはもえに燃えて、その後作文用紙に書いて提出するようになった。文章を書いて、誰かが読んでくれることがうれしいと思ったのはこの時が初めてだったと思う。

大人になって、文章を書くことに親しんでいたことがよかった、と思う場面が時々ある。
もちろん言葉だけがすべてではないけれど、自分が思っていることを心を尽くして伝えることは生きていくうえでとても大切なことだ。
テレパシーなんてないから、黙っていて伝わるなんてことはない。「言わなくてもわかる」、はありえない。
もちろん語彙力がなくて、これってどうやったら伝えることができるかな??と首をかしげてしまうこともあるけれど、それでも言葉で表現することはとても大切なことだと思う。こう思っている私の気持ちを相手に間違いなく伝えるためにはどうやったらいいんだろう?あふれる感謝や愛を、どうやったら伝えることができるんだろう?
言葉って本当に難しいな、と思う。

これも子供のころとはまた違って、相手に伝わるボールがどんな形なのかとか今は伝えるタイミングなのだろうかとか、少しだけ難しいことを考えてしまうから時々悩んでしまうけれど、それでも私は伝えることをやめないんだろうな、と思う。

Garden note

前の記事

7月11日の庭仕事
Life

次の記事

ユニコーンの貯金箱