働き続けるわけ③
ありがたいことに、私は仕事を続けることができる環境にめぐまれていた。
これはもう私の力でもなんでもなく、まわりの人のおかげとしか言いようがない。
両親、特に母の、女性が職業を持つことへの肯定的な考え方もあり、子供が生まれた後にどのようにすればよいかを話し合う機会も多かった。いろいろと考えた結果、家が近いほうがよいだろうということで、実家まで車で5分~10分くらいのところに引っ越すことにした。
夫の両親も柔軟な考え方をもってくださっていたことがありがたかった。仕事を続けることに対して、あたたかく見守ってくださった。
夫にいたっては、私以上に子育てに積極的にかかわってくれて、今思えば私たち家族は、そのころの日本における社会通念でいうところの「父・母」の役割にははまらない家庭だったのではと思う。父母が逆転する場面も多かった。
産休から復帰した私はといえば、とにかく必死だった。
花屋という職種を考えればゴールデンウィークはみんな総出で頑張り時なので、休むという考えがもともと自分の中にはなかったし、ちょうど春先とあってオープニングが2店舗重なっていた。さらには早急に解決すべき課題が目の前に積み上がり、両立どころか仕事に舵を思い切り切らなければどうにもこうにも身動きが取れない状況に追い込まれていたように思う。精神的な余裕は全くなかった。ただただ振り落とされないよう必死にかじりつき、帰宅すれば泥のように眠り、朝には家族がまだ眠りの中、バスにゆられて出動。最長2週間、子供の起きている顔を見ることがなかったのは、今思えばなんて母親だと我ながら引いてしまう。
子供は夫といる時間のほうが多く、保育園のイベントでべそをかいて泣くときにほかの子供たちが「ママ」を探すのに、「パパー」と泣いてしまうほどだった。そんな時はちょっと罪悪感がありつつも、でもでも今の世の中、いろんな形があってもいいよね。と心の中で言い訳をしたりもした。少し後ろめたい気持ちをかかえつつ、何でもない顔をしてへらへらと笑っていたけれど、「母親失格かな・・・」なんてことが頭をかすめることも往々にしてあった。(今思えば花屋のお母さんはみんな、1年で一番の繁忙期に戻ることになるから、これはなかなかハードかもしれない。)
それでも、これからの後輩の未来を考えたときに、自分がすこしでも駒を進めることができたなら、またこの後の次世代でさらに先にすすむことができるのではないかという淡い期待もあり、ここでへこたれるわけにはいかないと思っていた。今思えばその考えも、思い込みの強い私らしい自己満足だったのだと思うけれど、スキルがあってやる気もある女性が仕事を続けるための道をどうしたら開くことができるのか、自分の身をもってそれを示すことができればいいと思っていた。
そしてこれはもう自分だけの目標ではない、と本気で思っていた。